ひょうごのはなし

大阪生まれ大阪育ちの私が、仕事を通じてすっかりはまったひょうご五国の魅力を食を中心に伝えていくブログです。

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【赤穂鍛通】赤穂の伝統工芸、あこうだんつー!【伝統技術<赤穂>】

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 先日赤穂に伺った際にいつもと違う道を通ったら、こんな出会いが。

 

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 赤穂鍛通。あこうだんつう、と読みます。

 江戸時代に始まった赤穂の伝統工芸ながら一時は消滅してしまいそうになっていた技術なのですが、昨今地元の女性などが中心となって技術を継いでいく動きをされている、というお話を以前に赤穂のかたに伺ったことはったのですが、こんなところに。

 

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 平成14年の赤穂民報の記事を残しておられる方がおられました。

赤穂緞通「最後の織り元」西田進一氏逝去

 その製造技法が赤穂市無形文化財に指定されている赤穂緞通の制作に永年携わってきた御崎の西田進一氏が今年5月1日に肺炎のため亡くなっていたことがこのほど分かった。96歳だった。

 赤穂緞通は佐賀県の鍋島、大阪府の堺と並び「日本三大緞通」として数えられる手織りじゅうたん。素材はすべて綿糸。織りから仕上げまですべて手作業で行われ、畳1帖分の大きさを織り上げるのに熟練工でも約20日間かかる。「亀甲」「雲龍」など中国や中近東の織物の流れを汲む幾何学模様のデザインで、堺に比べると落ち着いた色合い、鍋島より毛足が短いのが特色だ。

 江戸時代末期に赤穂郡中村(現中広)に住んでいた児島なかという女性が夫の三郎兵衛とともに緞通を制作したのが始まりで、明治から大正にかけて盛んに作られた。明治末期ころには皇后の御召列車の敷物として、また枢密院玉座の敷物として採用されるなど、その高い芸術性が認められ、ニューヨークやロンドンなど海外にも流通し、名実ともに日本を代表する工芸品として世界に名を馳せた。

 昭和12年ごろから綿花輸入制限などの経済統制の影響で生産中止に追い込まれたが、戦後に復興。進一氏も父の新吉氏が創業していた緞通場にならい、昭和26年に工場を開設した。

 多い時は10人ほどの織り子を雇っていた。織り元の進一氏は織られた緞通を台に貼り付け、水を打って乾かす「敷き直し(しきのし)」を担当。「製品の出来不出来は敷き直し次第」といわれ、どの緞通場も必ず織り元が受け持っていた最も重要な工程。同氏は織り上がった緞通に厳しいまなざしを向け、淡々と仕事をこなした。

 やがて日本に高度経済成長の波が訪れ、手作りのものが人々の生活から忘れられていく中、赤穂にあった緞通場も次々と廃業。昭和40年初めには同氏の緞通場が唯一残るのみとなったが、同氏は採算を度外視してでも赤穂緞通の灯を守り続けた。

 しかし、平成に入り、織り子の継承者が減り、また、素材の綿糸を染める業者や握りハサミを作る職人が亡くなるなど時代の流れには逆らえず、「もはや本物を作るのは難しい時代になった」とこぼすこともあったという。

 赤穂緞通を後世に残したいとの赤穂市や市教育委員会からの要請を受けて、平成3年に「赤穂緞通保存会」の代表に。雇っていた織り子を「織り方講習会」の講師に派遣したため、実質、工場は閉鎖し後継者の育成に協力してきた。

 進一氏の緞通場で織り子として働いていた女性の一人は「だんなはんは口数の少ない人やった。緞通場を閉鎖する時に『うちらはもう休むから、あとは織り方講習会でがんばりよ』とやさしく送り出してくれました...」と声を詰まらせた。

 長男の妻で坂越小学校長の西田美恵子さんは「無口で気骨のある明治男の典型のような人でした。『もう思い残すことはない。わしが残せるのは図案と、作った現物だけや』と口にしていました」と回想する。特に敷き直しの技法については同氏が最後の習得者だったため、これまで保持されてきた技術は同氏の死去により失われたことになる。

 花が好きで、自宅横の畑には野菜は一切作らず、花ばかりを植えた。「花の命は1日限り」と、玄関先の生け花は毎朝、自分でいけかえていたという。

 「家族だけで見送ってほしい」という故人の遺志を尊重し、葬儀は家族と故人の兄弟だけで行われた。花とともに愛した赤穂緞通への思いと誇りを胸に、伝統工芸の保存に懸けた生涯を静かに閉じた。

  当時、赤穂鍛通を採算度外視としても商売としていた方が他界された際の記事です。「鍛通場を閉鎖するときに・・・」と記載があるので平成14年の段階ではすでに「商売」としての赤穂鍛通は存在しなかったのですね。

 

 赤穂鍛通がどういったものかもわかる、貴重な記事ですね。

 

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 残念ながらこの日はお仕事されていなかったようです。残念。

 

 【鍛通(だんつう)】

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 で、鍛通ってどういうものなの?て疑問もあるかと思います。

 私、以前「赤穂情報物産館」というお土産とか売ってる赤穂のアンテナショップで拝見したことがあり、画像が手元に残っていました。

 

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 地糸に麻糸や綿糸を用い、羊毛などの毛を結びつけて立毛にし、さらに各種の色糸を織り込んで模様を表したものです。

 

 画像で畳一畳ほどの大きさだったかと思います。こちらはあくまでディスプレイなので販売は・・・とお話されておられましたが100万円単位の商品であると伺いました。

 

 見た感じ「カーペットじゃないの?」と思われる方も多いはず。

 

【鍛通と絨毯の違い】

 ずばり!中国語で絨毯のことを「鍛通」と呼ぶらしいです。 

 じゃあ、どこに特徴があるの?と言われますとですね、「薄いほうが価値がある」とされるペルシャ絨毯とは逆に「厚みがある」ことが価値に繋がるらしいです。そこで絨毯と差別化できるよう鍛通という名前をそのまま使用しているそうな。
 なので「柄」は特に絨毯との線引きはないようです。

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【赤穂鍛通】

幻の緞通といわれる赤穂緞通は、鍋島緞通(佐賀県)、堺緞通(大阪府)と並び、日本三大緞通と呼ばれています。

上記の記事によると赤穂鍛通は「鍋島よりは毛足が短い」「堺よりは落ち着いた色合い」が特徴なんだとか。

 

鍋島緞通 歴史

元禄年間(1688-1704)に佐賀県の古賀清右衛門が小作人を長崎(一説には中国)に送って鍛通の製織方法を習得させ、この製品を「扇町紋氈」と名づけて製織を始めたと伝えられています。これが我が国におけるパイル敷物生産のはじまりであるといわれています。当時は羊毛の入手が困難だったため、原糸には綿糸が用いられました。

一般への売買が始められたのは明治維新後で大島貞七等数名がこれを鍋島鍛通として製造・販売を始めました。紋様は蟹牡丹が有名ですが、丸牡丹、牡丹、亀甲、雲龍、福寿、利剣、トルコ柄などがあります。

 

鍋島鍛通は検索すると、いくつも企業や職人がヒットするので、技術はしっかり継承されているようですね。

 

堺式手織緞通 | SIGHTS and FACILITIES SEARCH 観光施設検索 | OSAKA-INFO 大阪観光情報 ASIAN GATEWAY OSAKA

天保2年(1831年)、堺・車之町の糸商、藤本庄左衛門が絹屋町の絹屋物屋、和泉利兵衛に鍋島鍛通および中国鍛通を模した鍛通をつくらせ、これを堺鍛通と称して販売しました。

初期の堺鍛通には、手織り込み法と摺り込み法とがありましたが、明治19年(1886年)頃になると摺り込み法はなくなりました。敷物がやや産業的な形態を帯びてきたのは堺鍛通が最初だろうといわれています。

しかし、販売先を米国としていたため、明治30年(1897年)の米国の関税引き上げにより、輸出が激減し、衰退の一途をたどりました。

 

堺鍛通は赤穂と似た状況ですね。大阪の指定文化財となっていますが、1973年に唯一の技能保持者が他界されてしまったそう。現在は毎週の講習で少しでも技術を継いでいこうとされておられるようです。

 

「100万円」とか言われると・・・鍛通とはまたぜんぜんちがう技術にはなりますが日常使いとしてはカーペットで十分ですよね。ニトリとかでも安いカーペットあるし・・・となると富裕層の「家の玄関口の観賞用として」でしょうか。そこへいくとペルシャ絨毯が競合になってくるしなぁ。PR方法によって「国産大好き」な人たちの心を射抜くのでしょうが、いかんせん製造能力(ボリューム)の低さと衰退産業なのに「なんとかしよう」っていうPRが伝わってこないあたりが、色々とハードルがあるんでしょうねぇ。作り手側からしても非常に長い時間をかけて作られるので、100万円とかでもわりに合わないんだろうなぁ・・・

 

 絨毯のような敷物ではない、新しいアイデアが必要とされているのでしょうね。

 復活のためには。アイデアマン、ぜひ!大きいビジネスが広がっているやも。

 

 !!

 堺でそんな「三大鍛通」をまとめて見れる展示がされてた!!

 11月5日まで。なんだかこのブログ書いてて見に行きたくなってきました。

prw.kyodonews.jp

 

【児島なかさん】

 新聞記事にも記載がありましたが「赤穂鍛通」ひとりの女性が始められたのだとか。


 赤穂緞通は、赤穂郡中村(現赤穂市中広)に生まれた「児島なか」という女性によって、江戸末期に考案された、と。讃岐国の高松を訪れた際に出会った中国の万暦氈に魅せられ、以後独自で緞通の技術・研究を重ね、26年もの歳月をかけて明治7年(1874)に赤穂緞通を完成させました。  

 

 え?鍛通のはじまりが赤穂ってこと??でも鍋島とか堺とかもっと前から鍛通やってたみたいに、先ほどの地区による鍛通の特徴の違いに書かれているので「赤穂鍛通のはじまり」ってことでしょうね。独学で始めはったんか・・・すごいな。なかさん。


 そして赤穂緞通は、塩田の作業に従事する女性の労働力が豊富にある赤穂において大きく発展することになります。女性が強い地区だったのですね!素晴らしい。

 

赤穂緞通の歴史

 明治末期には御召列車の敷物として、天蚕を使用した赤穂緞通が採用され、その後も東宮御船、枢密院王座の敷物として、政府に納入されたそうです。

 その風雅な文様は、茶人、名のある料亭、お茶屋などに好まれ、大正から昭和初期にかけては遠く海外にも販路を広げ、全盛期を迎えましたが昭和12年に綿花輸入制限を受けて、緞通場の閉鎖を余儀なくされました。

 これ以降、緞通業は衰退の一途をたどった、とのこと。

 

 赤穂は塩も国の政策によって大きく縮小してしまったし、国の政策に左右されることが多かった地区なんですね、それがなければもっとにぎやかな街になっていた可能性もありますよね。 

 

 敗戦後、緞通業を再開する織り元も現れたようですが、手作業でしか作れない赤穂緞通は近代化に取り残され、また、その大変な根気と技術のいる作業が敬遠され、時代の流れと共に緞通場は次々と廃業していきました。

 

 今はそんな「希少性」が評価される時代だし、上手く人々のニーズにマッチングさせてあげれないのか、そんなアイデアをもつ本物のクリエイターを行政が声かけしてみないのか、と期待。

 

 で、「じゃあ今赤穂鍛通を継いでいる人たちってだれなの??」ですが、織元が1つ残るのみとなっていた平成3年に、赤穂市が「赤穂緞通織方技法講習会」を開始しました。現在はその修了生がそれぞれの工房を持ち、伝統工芸としての保存および技術の伝承、地場産業として赤穂緞通の名を全国に広めていくことに努めているのだとか。


幻の緞通といわれる理由

 厳選された綿糸のみで作られた赤穂緞通は独特の風合と手触りを持っています。文様を際立たせるために握り鋏で念入りに摘みの作業をしていきます。その作業には大変な技術と手間がかかります。


 昭和末期に廃絶の危機に見舞われ、幻の緞通と呼ばれた赤穂緞通は現在、新しい織り手によって、復活されつつありますが、その作業は、図案や使用する色糸選びから始まって、すべての工程を、1人の織り手が伝統技法を守った手作業で行うため、仕上がる緞通の数は大変少ないのです。

 

 一度生で作業をされているところを拝見させてもらいたいもんです!

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 ちなみに、赤穂鍛通加屋屋工房前はこんな建物が。

 味のある街並みでした。

 

 鍛通に興味もたれた方はまずは本物を一通り見ちゃいましょう!

 11月5日までに堺へどうぞー!!

 

特別展「堺緞通ものがたり ―日本の緞通、世界を結ぶ―」<平成29年9月16日(土曜)~11月5日(日曜)> 堺市


 

 

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